かさはら歯科医院 院長 笠原一規の紹介 | 仙台市宮城野区

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院長紹介

院長 笠原 一規

1994年 北海道医療大学 歯学部 卒業
1997年 かさはら歯科医院 開業

歯科医師になろうと思ったきっかけ

私は両親とも歯医者ではない家庭に育ちました。ですので、歯医者になりたいとは思っていませんでした。
高校3年の12月に医者か歯医者に行こうと何となく、思ったのがきっかけでした。というよりも、医学部か歯学部ってかっこいいよなーぐらいの気持ちでした。

国立に行ける頭はないし、自分の家に私立に行ける余裕もないと思っていました。
受かるとも思いませんでしたが、受験で数学Ⅰが受けられるのが歯学部だったので、浪人したら医学部に行こうかなぐらいの気持ちで、歯学部に現役で合格して、行くことになりました。

父親が公務員だったので、公務員以外の仕事をしたいと思っていました。
高校生ぐらいのときは口が達者だったので、「弁護士とかになりたいなー」と漠然と思ってました。ある朝、起きて、学生服に着替えているときに、ふと「歯学部に入ろう」と思いました。周りの人の歯が悪かったり、自分の歯が悪いわけでも、歯医者が嫌いでも、好きでもありませんでした。当時から、人と話したり、接客などの人とコミュニケーションが取れる仕事をしたいと思ってました。ですから、コンピューターと向き合ってする仕事、工場で黙々と働くような仕事はできないと思っていました。

学生時代

歯学部に入ってからも「歯医者になるんだなー」ぐらいにしか思っていませんでした。
特に、勉強も難しいわけではないし、ラグビーの練習のほうが大変で、「合宿行くのやだなー」とか、そっちのほうを心配していました。「先輩から夜中に呼び出されんのかな?」とか、今考えれば、そんなくだらないことばかり考えていました。

大学時代はラグビー、ラグビーでラグビー漬けの日々でした。おかげで、大学を卒業する頃には、入学時よりも体重が25キロも増えて、よく高校時代の友達から「どうしたの?」と言われ、「いや、宇宙人にさらわれて、帰ってきたらこうなってたんだよ」と言っています。

成績もそんなに良くないし、特に「ああしたい」「こうしたい」と色々、考えていたわけでもありませんでした。だから、今、こういう風に歯科医院をやっていると同級生が知ったら、みんな、驚くかもしれません。別に、実習や成績も普通な感じでした。

就職の際にも、「どんな歯科医院で、どんな勉強をするのが良いのか」についてアドバイスをしてくれるような方がいなかったので、「どんな歯医者に勤めるのが良いのか」ということを考えずに、「みんな歯医者は一緒だろ」ぐらいの気持ちでした。

就職先は実家の近くで、大学のラグビー部の先輩の医院に勤めました。同窓会の会長の先生から「この先生は素晴らしい先生だから、ここに就職しなさい」といわれて、そこに勤めました。「お給料はこれくらい、もらえるように言っておくから」と言われたのですが、全然、もらえませんでした。自分の治療が未熟だったので、仕方ないのですが・・・。

歯科医師になって

勤めると、前からしゃべるのが得意だったので、治療は別にして、患者さんとのコミュニケーションは最初から凄いできていたように思います(自画自賛ですが)。歯医者になったばかりですので、治療はそんなにできたわけではないんですが、患者さんとのコミュニケーションで患者さんには嫌な顔をされずに済んでいたようです。

「患者さんが思ってること、どんなことをしてほしいか、どうすればその人が喜ぶか」を常に、考えながら治療していました。だから、患者さんとのトラブルはほとんどなかったように思います。

私が勤めた医院は木・日が休診日だったんですが、木曜日は大学の先輩のところにアルバイトに行って、患者さんの数を診れるようになるための勉強をしに行ってました。 そこの先生は形成(歯を削ること)について、こだわりのある先生だったので、いつも怒られていたので、気が重かったです。しかし、そのお陰で、今では、しっかり削れるようになりました。家から車で2時間くらいかかるその医院に毎週1回通ってました。

日曜日は矯正の医院に新宿まで、勉強しに行ってました。
ですので、2年間ぐらい、休みが全くない生活を送ってました。
ひどいときは、自分の結婚式が土曜日にあったのですが、そこで朝の5時まで飲んでいたにも関わらず、院長から「明日、矯正の仕事、行くよね?」と言われ、「はい」と言ってしまいました。そんな感じで、楽しくも、厳しく、働いていました。

勤めていた医院の院長は「痛みを与えない」「コミュニケーションを取る」という、今の自分の基本コンセプトとなる考えを教えてくれた先生でした。
当時は、毎日働いていて、お給料も、勉強させていただいている身ですので、そんなにもらえるわけではないので、「自分で開業して、もっと勉強会とかに行って、技術を高めたい」という気持ちで、開業を考え始めました。

当時、勤めていた医院は2階にあったので、年配の患者様が全く来なかったので、勤めていたときには、総入れ歯を作ったことが1人しかいない状態でした。そんな状態でしたので、もっと「技術を高められる環境を自分で作らないといけない」という気持ちが強くなりました。
私の大学の同級生が石巻で働いていたのですが、そこに出入りしていた業者さんから居抜きの物件の話があり、その話が私に回ってきたのです。「患者さんも1日3、40人来ていて、医業収入もけっこうあった。だから、ここは良いよ」と言われたのです。こうして、当時、実家の埼玉の近くで勤めていた私が塩釜に行くことになったのでした。

塩釜開業時代

世間知らずだった私は、仙台駅に車で迎えが来て、塩釜の街の状況や駅前の状況も見ず、医院周辺の状況がどうなっているのかもよく調べずに、契約をしてしまいました。当時、勤めていた医院では、持ち前のコミュニケーション能力で患者さんから絶大な信頼を得ていたので、物件を見た時に実は「ここはダメだな」と思ってたんですが、「元々は患者さんがいたんだから、オレだったら患者さんは来るんだ。俺は成功するんだ」と根拠のないことを考えていました。

今、考えると、本当に恐ろしい限りですが。当時から、「患者さんが来ない医院が増えてきてる」「開業しても、簡単には上手くいかないよ」と言われてましたが、周りにそういう医院がなかったので、「自分は大丈夫だろう」と思って、契約してしまったのです。

いざ、開業してみると、1日4人とか2人とかしか、患者さんは来ませんでした。1年やっても1日に患者さんが20人来る日は1日もありませんでした。「聞いていたのと全然、違う!!」とその医院を紹介した業者を恨んでいました。

患者さんもいないので、3時から5時まで寝ていたり、材料屋さんと無駄話をしたり、「勉強したい」と思って開業したはずが、患者さんが来ないためにだらけてしまい、ゴロゴロする毎日でした。世の中、甘い話はないんだなと痛感しました。

患者さんが来ても、入れ歯の患者さんばっかりで、入れ歯を作ったことがなかった私は、本を見ながら作ったりしてました。あまりにも入れ歯の患者さんが多いので、スタディーグループにも参加して、上手い先生から教わったりしている間に、他の先生よりも圧倒的に入れ歯は作りましたし、上手くなったと自分でも思います。

でも、塩釜では驚きの連続でした。患者さんは島から船に乗って治療にくるし、昼休みに1:00ぴったりの船に乗って、桂島に渡って、往診に行って、2:45に桂島を出る船に乗って、3:00ぴったりくらいに医院に戻ることも週1日やったりしてました。

当時はスタッフゼロ人で、妻と2人で毎日、診療していました。妻は受付がメインだったので、私は自分でバキュームやって、印象して、バイトとって、仮封までしてました。

ある時、ある患者さんがタクシーの運転手さんに「ここがいいよ」と言われて、無理やりうちに連れてこられました。しかし、うちの医院の入り口まで来ると、医院は暗いし、誰もいないし、怖いしで、帰ろうとしているのを発見して、「大丈夫ですから」とその患者さんを呼び止めたことさえありました。今考えると、何が大丈夫なのかわかりませんが・・・。

でも、「自分ではもっと頑張れる、行けるはずだ」と思っていました。でも、知らない人からは「患者さんが来ないのは、それは自分のせいなんじゃないの?」「それはあなたに問題があるんじゃないの?」と言われ、そんな風に、見られるのが凄く嫌でした。だから、今でも、患者さんの人数へのこだわりが強いのかもしれません。 これが人生、初めての挫折でした。しかし、塩釜で開業して2年、私に転機が訪れました。

今、お世話になっている材料屋さんの知り合いの方が新田のほうで、テナントを作ろうとしていて、歯医者が良いんじゃないかということになり、面談の結果、私になったようです。 塩釜に行って、1年ぐらい過ぎたあたりから、「別の場所に移ろう」「この場所では今のままやっていても、上がらない」と思い、新田の方に何か良い物件はないかと探していたところに、この話だったので、すぐに「やります」と返事をしました。今回は2回目の開業だったので、前回の間違いは犯さないように、結構、周辺のことなども調べた上で、開業することにしました。

塩釜で開業して2年、最後の方は1日25人ぐらいまで患者さんは増えていました。 当時は妻と二人で診療してたので、患者さんがいないと休診にして、遊びに行ったり、温泉に行ったりと気楽でした。今、思えばこの時の苦労があったからこそ、今の自分があるんだと思います。この時の苦労がなければ、努力することの大切さや向上心を知ることもなかったと思います。

こうして、塩釜での2年間、存分に挫折を味わった後、私は仙台市の新田に移転することになりました。

仙台での開業

新田に移転すると、開業3日目にして22人もの患者さんが来院されました。 塩釜では2年間頑張っても、25人程度だったのが、3日にして、ほぼ同じ人数だったのです。やっぱり、それだけ場所は大切だったんだということを痛感しました。

今までスタッフがいない歯科医院だったのが、スタッフを3人ぐらい雇う歯科医院になったので、どうやってスタッフを教育するかには悩みました。 新田では、「子供から、お年寄りまで、どんな人でも、来てもらえるような医院にして、より多くの人に来てもらいたい」と思っていました。 この後は、スタッフの教育で悩みながらも、順調に右肩上がりで患者さんが増えていきました。新田の医院はユニットが4台しかなかったので、医院のキャパシティーをオーバーするくらいまで、患者さんが増えていきました。新田に移転して4年経った平成15年頃に、これまでの治療中心の歯科医院から、予防中心の歯科医院に移行しようと決意しました。

これからの世の中の流れを考えると、「どう虫歯にさせないか」「どうやって、いい状態を保っていけるか」ということを強く思うようになりました。どれだけ良い治療だと思っても、治療すればするほど悪くなっていく患者様の口の中を見ると、予防中心の歯科医院になっていかないといけないと確信するようになりました。

平成16年1月にユニットを4台から8台の倍にして、500メートルぐらい離れた場所に移転オープンしました。新しい医院は「怖い、痛い、行きたくない」これまでの歯科医院のイメージではなく、「楽しい、痛くない、行きたい」歯科医院を目指しました。そのコンセプトを実現するためにも、待合室には高級感を出すために、ホテルのロビーのような居心地の良さを追求し、診療室にも開放感と明るさを追及し、治療ではなく予防専用の個室を2部屋作りました。

移転後も多くの患者様から支持をしていただいたので、さらに予防スペースを拡大するために、平成16年11月に医院を拡張しました。予防専用の個室を2部屋から4部屋に増やし、子供と家族のみなさんが貸切のような形で治療を受けられるファミリールームを作りました。

これから、うちの医院に来られる患者様がわくわくして来院していただけるような、笑いと笑顔が絶えない、健康な人が自分の健康を維持するために通う、そんな医院にしていきたいと考えております。

インドアビュー